私の過去、現在、近未来 (主に過去をメモ風に語ります。)

1.大学受験国語講師(現代文・古文・漢文・小論文・多摩美大等対策国語)(22年間)
  
 ★私が指導した生徒の合格大学の一例 
  早稲田大学 政経学部・法学部・文学部・商学部・社会学部
  慶応義塾大学 法学部・商学部・文学部・総合政策学部
  東北大学 法学部
  東京学芸大学 文芸学部
  上智大学 法学部 英米文学部
  立教大学 観光学部 
  青山学院大学 英米文学部
  明治大学 政経学部 商学部
  中央大学 法学部 他
 
 ◆私が、お茶の水の駿河台記念会館で法曹養成第1期生として司法試験勉強を続けながら
  生活費を稼ぐために非常勤講師として入社。
  28歳の時から、若い熱き情熱に促され、以後20年間この世界で、楽しいひと時を
  生徒とともに過ごさせていただき、その思い出は今でも宝物になっています。 

〇一番凄かった年がある、1991年だったと思うが、子供の数も多くて(ピーク時)、
 大学入試の競争率も高難度になっていたころである。
 都内・神奈川の有名な私立高校の生徒、数名が、早慶上智合格数約20という数字を
 たたき出したのである。その中には9校全部合格という強者もいた。
  この生徒たちと春期講習から前期、夏期講習、後期、冬期講習、正月特訓、直前講習と
 切磋琢磨した、その1年間は、今でも輝かしい想い出となっている。

  合格後、私の母校、八王子の田舎にあった広大な土地を有する、真っ白な校舎へ案内して、
 当時、学食の中でも豪華さで有名な、食堂に行ってごちそう(といっても学食のため
 高くても600円程度だったと思う)して、少しは喜んでくれたように思う。
 そのあと青葉台の飲み屋さんにも行って、初めてお酒を口にした?こともよい想い出と
 なっている。本当に私自身の心の中で、光り輝く宝ものなのです。

〇ただ、楽しんで勉強して華やかな結果を受け取った笑顔の生徒がいる一方、
 私の教える実力がなかったため、希望の大学とはほど遠い大学、短大にしか
 受からなかった生徒の顔が、今も私の片方の瞼から離れないでいる。
 彼ら・彼女たちが、今充実した幸せな人生を歩んでいてくれることをずっと願っています。
 
 ※過去の生徒への思いなどを随筆風にブログで綴っているので、学樹舎の元生徒の皆さん、
  良かったら私のブログを見てください。「シオピ」で検索すれば最初に出てきます。
  過去の思い出の生徒たちについて、ブログで綴っていますし、
  あるいはコメントをいただいたりしています。   

2.「千代田アカデミー」大学生の転部・編入試験予備校 憲法・民法論文講師(6年間) 

私が指導した学生の合格大学の一例 今でも印象に残っている学生が3人います。
 明治大学 法学部
 千葉大学 法学部 大学卒業後、大手損保会社に就職し、現在中核で活躍中の方で、
          今でも年賀状をいただいている。新横浜のレストランで一緒に食事をした
          思い出がある。また今度、ご一緒いただければと思っている。
          https://motokousi.blog63.fc2.com/blog-entry-132.html
           
 京都大学 法学部 国立高崎経済大学に通っていた学生が、最後の年に入ってきた。
          どの大学に編入したいのか知らなかったため、京大に向けてのアドバイスは
          できていない。ただこの女学生で印象に残っているのは、私の作成したレジュメ
          (憲法では当時第一人者、芦部信義の簡潔な放送大学のテキストをもとにした
           教科書のキーワードを中心にまとめたもの)の表現を用いてほぼ完璧に
          合格答案を作成していたことだ。
           京大の問題は、一時有名になった政治哲学の難問のような思考力を問う
          独特の問題で、過去問の検討と緻密な構成力で対応されたのかと推測します。
          おそらく今は弁護士にでもなっているのではないかと思います。
 
 日本大学 大学院他 合格後、大学院で税理士になる免除科目を取得したことが早めの税理士資格の
           取得につながったのだろうと思います。現在は所沢市で税理士を開業されて
           います。私も遅ればせながら士業を開始いたします。
           今後ともよろしくお願いいたします。

◆JR水道橋駅前にあったが、2001年に廃業しました。明治短大の学生が多く来ており、
 明治大学4年生法学部への編入が多かったが、結構厳しい結果が多かった。 
 非専門の国語講師から、専門の法律系講師への架け橋となるきっかけとなりました。

3.中央法律専門学校講師 担当科目(憲法・民法・刑法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法)(17年間)
 副都心の 池袋駅より少し離れた地にある。
◆勤務開始の際は、100人もの学生に授業をしていたが、退職する間際には、4,5人、場合によっては
 個別指導をしていました。
 このころ、新人講師として5,6人の方と一緒に研修を受けていたが、講師の一人が小さなノート
 パソコンを持っていたのを知ってとても驚いた記憶があります。それまで私はブラウン管のワード
 プロセッサー(重さ6.7キロ)を机上で使っていたからです。
 これが、私の記憶する、パソコンという新たな世界を知った時でした。その後、2000年から、
 ウィンドウズ98のノートパソコンを購入した時から、デジタルの魅力に取りつかれ、あらゆる
 デジタル機器を経験している。
  
4.アイリスインターネット予備校(廃業)にて 東京大学指導センター長(入社1年後に倒産)
  ウェブ会議システムについては、今から13年ほど前にアイリス株式会社というIT企業で、
 私はすでに経験済みです。
 おそらく当時としては草分けとなる存在で、そのシステムも使われ方の発想や独特のものでした。
  本社は赤坂のビルにあり、赤坂指導センターとして、主に上智大学・慶応義塾大学・東京外国
 語大学の現役学生を講師に、1対1の授業を、北海道から九州までの約100教室存在した
 サテライト教室(例えていうならフランチャイズ教室)に集まってきた小学生~高校生の生徒に
 ネットで教えるというシステムでした。
  早稲田大学の学生を集めた早稲田指導センターというのもあり、あとで述べる東大指導セン
 ターも含め、計3つの拠点があったのです。
  現在のZOOMとほぼ同じ、相手の顔が右横に見えるとともに、画面にホワイトボードを配置
 して、一流大学生が個別に指導するという感じでした。
  私が入社して担当したのは、本郷3丁目で降りて、東大赤門に向かっていく途中にある
 東大指導センターでした。そこでは、東京大学現役生が夕方からこの教室に集まり、このウェブ
 会議システムで教えていました。その拠点の窓からは、東大赤門が見え、工学部の講師が研究を
 終えたらすぐに拠点に駆けつけることができたという近さでした。だからこそ、東大生が集まっ
 たともいえるのです。
  当時はこれが今後のスタンダードになると思い、入社したのですが、半年後から、資金繰りが
 うまくいかず、私たち社員にだけでなく、講師たちにも講師料が払えなくなり、1年後には倒産
 してしまいました。
  その後1年後くらいにマイクロソフトのスカイプが登場したように思えますが、使い勝手は、
 私たちのアイリスシステムの方が断然上でした。まさに今のZOOMと同じような機能を有して
 いたのですから。
  アイリス株式会社が倒産するその過程は、想像を絶するものでした。私たち管理者の給料は
 半年後から全く出なくなり、無給で倒産処理が終わるまで勤務を続けました。家内からは、
 悲痛の叫びが…その半年間ほぼ貯金を取り崩していたのですから。
   
  どうして無給にもかかわらず勤務を続けたかというと、このシステムを事業承継しようと、
 早稲田指導センター長とともに壮大な夢を描いたからでした。その方は麻布中高を卒業後、
 慶応経済から三井物産の取締役まで務めた方で、事業承継を各種会社に売り込もうとして
 いたのです。
  このシステムに興味を持った会社には、ベネッセコーポレーションやブラザー(ミシン製造
 からプリンター製造へ転換した会社)などがありました。話がまとまるまで無休だったため、
 とりあえずアルバイトでもしてしのいでいてほしいとのことから、私は法律事務所や夜勤中心
 のセキュリティ業務に携わることとなりました。
  ところが、結局2年後にはいつのまにかその話は立ち消えとなってしまっていました…
 終了宣言も全くなく‥‥いつのまにか私の夢は終わりを告げていました。

 ※以下は少しずつ書いていきたいと思います。

5.セキュリティ業務 日吉にてNRI(野村総合研究所)内にて勤務、その後4棟500世帯大型
 マンション勤務(5年間)
 
  ただこの間も、中央法律専門学校での非常勤講師は継続していた。この時に行政書士を受験
 したいという女子学生のために私も行政書士試験の勉強を開始した。
  司法試験では、商法・民訴・刑訴の勉強もしていたが、さすがに行政法はほとんど勉強して
 いなかった。この行政書士試験は、「行政」の名の通り行政法がメインと なっている。宅建
 試験の宅建業法のような位置づけである。この科目をいかに制するかが合格のカギとなってい
 る。特に記述問題が大きな配点となっているためでもあるのだが。
  恥ずかしい限りだが、付け焼刃の勉強しかできなかった。ただ、キーワードを使ってまとめ
 るという作業を、転部編入試験で学生に教えていたこともあり、その要領で重要語句を覚えて
 ポイントのキーワードを並べて論理的につなげていって何とか乗り切ったという感じである。
  でも初めての受験で合格できたのは、あとで述べるマンション管理士試験と同じく、本当に
 藤井棋聖の放った言葉「僥倖(ぎょうこう)」だったと思う。

6.某マンション管理会社にて、管理業務主任者としてマンション管理の基本とホスピタリティ
 の精神を学ぶ。(6年間)

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